杉田久女

杉田久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 - 1946年(昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の俳人。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事。長谷川かな女、竹下しづの女などとともに、近代俳句における最初期の女性俳人であり、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。

大蔵省書記官・赤堀廉蔵と妻・さよの三女として鹿児島県鹿児島市で生まれる。父の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、ついで台北市と移住して過ごす。1908年(明治41年)、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校)を卒業。1909年(明治42年)、旧制小倉中学(現・福岡県立小倉高等学校)の美術教師で画家の杉田宇内と結婚し、夫の任地である福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。

1911年(明治44年)長女の昌子が誕生(後の俳人石昌子、石一郎の妻)。1916年(大正5年)次女の光子が誕生。この年、次兄で俳人の赤堀月蟾が久女の家に寄宿し、この時に兄より俳句の手ほどきを受ける。それまで久女は小説家を志していた。『ホトトギス』に投句を始め、1917年(大正6年)ホトトギス1月号に初めて出句。この年5月に飯島みさ子邸での句会で初めて高浜虚子に出会う。画を描かなくなった夫との生活に失望する反面、虚子への崇敬を高めていき頭角を現すようになる。

1920年(大正9年)、腎臓病を患い離婚話が持ち上がるが、夫の同意が得られず、家庭不和の一因となった俳句を一時中断する。1922年(大正11年)夫婦揃って洗礼を受けクリスチャンとなる。1931年(昭和6年)帝国風景院賞金賞20句に入選。1932年(昭和7年)、女性だけの俳誌『花衣』を創刊し主宰するが、5号で廃刊となった。1934年(昭和9年)中村汀女・竹下しづの女などとともに「ホトトギス」同人となる。

久女は句集の出版を切望しており、虚子に序文を頼むために再三にわたって手紙を送り、上京もしたが黙殺された。1936年(昭和11年)には理由不明のまま、日野草城、吉岡禅寺洞とともに「ホトトギス」同人を除名される。以後は句作に没頭できず鬱々とした日々を過ごし心身を衰弱させた。1939年、全句を書き出して自選を行い俳人としての人生を総括。

1945年10月、太平洋戦争後の食料難により栄養障害を起こし福岡県立筑紫保養院に入院。1946年(昭和21年)1月21日、栄養障害に起因した腎臓病の悪化により同病院で死去。享年56歳。愛知県西加茂郡小原村(現・豊田市松名町)にある杉田家墓地に葬られた。戒名は無憂院釈久欣妙恒大姉。切望していた句集の出版は生前にはかなわず、死後に長女の石昌子によって『杉田久女句集』(1952年)などが刊行された。

1957年(昭和32年)長野県松本市の赤堀家墓地に分骨される。ここに記された「久女の墓」の墓碑銘は長女・昌子の依頼で虚子が筆を取った。

久女の波乱に富んだ生涯は、当事者である高浜虚子自身が『国子の手紙』(1948年)の題で小説を描いたのをはじめ、のちにさまざまなフィクションの題材とされた。主な物では松本清張の小説『菊枕』(1953年『文藝春秋』)、吉屋信子の小説『底のぬけた柄杓-私のみなかった人「杉田久女」』(1963年『小説新潮』)、秋元松代作のテレビドラマ『『山ほととぎすほしいまま』(1964年、TBS近鉄金曜劇場、渡辺美佐子主演)などである。

女性は家庭にいるのが当然という時代にあって、久女は俳句のために夫や子供をおいてしばしば外出した。直情的な性格だったこともあいまってこれは家庭の軋轢の原因ともなり、不倫の噂なども立てられた。さらに死去した場所が精神病棟だったことから狂死の憶測もたてられる。上述のようなフィクション作品によってこうした「久女伝説」ともいうべきものが喧伝され、久女作品の評価にも影響を及ぼした。

こうした伝説の類は長女の石昌子や増田連の著作、田辺聖子の実録小説『花ごろもぬぐやまつわる・・・わが愛の杉田久女』(1987年)などによって修正されてきており、久女の実像を踏まえ、近代女性俳人の嚆矢としてその作品が評価されるようになっている。

hiragana: 
すぎたひさじょ
yearborn: 
1890
yeardeath: 
1946